【エヴァ】シン・エヴァンゲリオン劇場版 感想
シン・エヴァンゲリオンを見ました!
予備知識は事前に新劇場版3作を見た程度。
印象に残ったシーンを書き連ねたメモしてます。
・「どうしてみんな、僕に優しくしてくれるんだ」「もう放っておいてよ」と言うシンジに、綾波が「私も、みんなも、シンジ君のことが好きだから」と伝えるシーン。
人間に必要なのは愛情、ただそれだけなんだなと心にしみる。
シンジは主観で見たら、やることなすこと全部裏目に出て周りに迷惑しかかけていない最低野郎だと思っている。
他人に思い通りに動かなくてごめんなさいって、引け目を感じている。
これは、「人の言うとおりにしていれば人にほめてもらえるから」という目的意識で動いていた初期のシンジが、まだ根っこに残っているんだろうな…
人の意思に背くことを、悪いことだと思っている。
けど綾波はじめとした周りの人たちは、シンジがどうしてそういう行動に出たのかを、一生懸命考えてくれている。
シンジのことを自分の思い通りに動いてくれる手足としてではなく、悩みや感情に従って動く「同じ人間」として見ていてくれている。
それが綾波の言う「好き」という言葉の意味なんだと思います。
シンジを、存在するひとりの人間として扱ってくれる。これは当たり前のことかもしれないけれど、シンジにとってはそうではなかったのでしょう。
皆とシンジが同じ存在であると、シンジが信じていたのなら、今まで感じていた数々の孤独をシンジが感じることもなかったはずだから。
エヴァ初号機に乗れるのは自分だけ。初号機にしかできないこともたくさんあった。
頼れる父親とは距離があり、母親の存在を求めて寄り添ったミサト、アスカ、綾波らも、それぞれの事情でどんどん離れていく。
シンジが孤独感を「人生の中でどうしようもないもの」「付き合っていかなければならないもの」として持ち続けたのも、仕方ない境遇なんだろうなあ。
・アスカがシンジに無理やり食べ物を詰め込むシーン
このシーンに限らず、アスカの言うことがいちいち正論過ぎてシンジに感情移入しすぎるとめちゃくちゃ刺さる。痛いほど。
アスカの生きざまは、シンジから見るとめちゃくちゃかっこいいと思う。
そしてかっこよすぎて、シンジは自分と比べてしまって「僕にはできないよ」とまた落ち込む。
結構、シンジ視点でエヴァを見てしまっているので…アスカは推しだし…
・シンジとゲンドウのラストバトル
バトルというか、対話のシーンがすごく温かくて、これぞ家族の在り方という気がします。
ゲンドウがなぜそこまでユイにこだわるのかがようやく明かされ、シンジに感情移入をしていると「そうか、父さんも僕と同じだったんだね」と思わざるを得ません。
孤独に過ごした少年時代、好きなものは知識とピアノだったゲンドウ。
なぜなら二つとも、一方的に得ることができて、いついかなるときも同じ情報を刻み続ける、安定した「関係」を築ける存在だから。
もう孤独愛好者の極みですね。痛いほどわかる~~~。
勉強と音楽だけが友達なゲンドウに同情してしまう。
その価値観に変化を与えてくれたものが、ユイからの愛情だった。
冒頭のシンジと綾波のシーンに重なります。
ここでゲンドウがやりたかったこととは、「シンジにも愛を教えたかった」のだと気づきました。
途中でアスカが綾波に「あんたの感情は最初からシンジを好くようにプログラムされている」と説明しますが、それを仕組んだのはもちろんゲンドウなわけです。
シンジと綾波のシーンはゲンドウから送られた「母と子の愛ある対話」であることを思うと、めちゃくちゃ不器用で遠回りな父親の愛だな!と思っちゃいました。
本当は初めから、ゲンドウ自身が親として子供に愛情を注いでやればよかったことです。こんな長大な話になることはなかったはず。
しかしゲンドウ自身は自分にそんな価値はないと思い込み(ここも実に親子らしい、似ている部分)、自分からシンジを遠ざけていきます。
すごく些細なすれ違いから、エヴァンゲリオンという壮大な物語ができていると思うと、スケールのギャップに思わず呆然としてしまいました。
・「エヴァンゲリオンのない世界」
すごく好きなエンディング。
好きなエンディングの一つに、新海誠の「天気の子」で、「雨がやまない東京」を元に戻す選択肢を捨てて、「雨がやまない東京」で生きていくのが僕たちの幸せだ、というものがある。
またたいていのファンタジーでは、闇の世界から魔王が侵略してきて「暗黒に閉ざされた世界」になるも、勇者が魔王を倒すと暗黒が晴れて「元の世界に戻る」、といったあらすじが基盤にある。
シン・エヴァンゲリオンの場合は、「エヴァンゲリオンのない世界へ行く」という選択肢となった。
「行く」のがとても重要ポイント。
「エヴァンゲリオンのない世界」は実は、シンジたちが創造や改変をするまでもなく、既に存在している。つまり「現実(リアル、3次元)」。
シンジたちはただ、「現実」へ向かうだけ。「エヴァンゲリオンがある世界」から脱出するだけ。
この回答を提示したその瞬間、映画はスタッフロールになる。
驚いている間にスタッフロールが流れていく、この余韻がすごく好きですね。
二次元のキャラクターが三次元に来る、あるいは二次元の世界に三次元から介入する、という展開は、いつも好きです。
「ブレイブリーデフォルト」のラストバトルやエンディング(セカンドの、プレイヤーコマンドをハッキングされる展開も面白い)。
『ドラゴンクエスト ユアストーリー』のラストバトル。
「.hack//」シリーズや「ソードアート・オンライン」シリーズ。
MMORPGを舞台にした物語におけるプレイヤーのアバターと中の人の関係や距離感。
あんスタの現存する会社とのコラボ広告、AR、VRでのライブ。
どうしていつも、そういう話や仕掛けに惹かれるんだろう。
呆然としたスタッフロールの中で、そんなことを考えてました。
二次元のキャラクターには、いろんな人物を投影できる。
たとえば今回は、シンジに感情移入してエヴァンゲリオンという作品を見てます。
けどミサトに感情移入するひともいるし、アスカにするひともいます。
エヴァンゲリオンの登場人物が全員嫌いとか、自分と近い存在がいないと思う人は、別の作品に好きなキャラクターがいるかもしれない。
あるいは自分で分身を創作することもできる。
そうして自分の分身のように感じたキャラクターが、たいていはハッピーエンドに向かって頑張る姿が描かれる(感情移入するのが主人公か悪役かによるけど)。
するとまるで自分のことのように一喜一憂し、最後は大団円をむかえて「自分もああなれるかもしれないのか」と勇気をもらっているのだと思います。
いいお手本になってくれるんだ、二次元は。だから二次元が好き。
そして彼らが私たちのフィールドである三次元に干渉してくれることによって、「ああなれるかも」がより近く感じるのだと思う。
だから、このエンディングに惹かれるのかな…。
以上!全然まとまってない!